2003.04.20真の勇者設立から2005.04.20創立記念日までの管理人の目で追った杉浦太陽くんストーリーです。
杉浦 太陽(TAIYO SUGIURA・すぎうらたいよう)
生年月日:1981.3.10
幼少からコスモスデビューまでの軌跡

「“太陽”って書いて“たかやす”って読むのが本名です」
「そうですね、そのまま読んじゃおうってことで“たいよう”に変えたんです」
「(たかやす)もしくは“たっくん”ですね(笑)」

管理人がCGを利用して描いた杉浦太陽くんです。

オーディション行っても行っても毎日毎日ほとんど落ちるばっかりで…もう全っ然ダメでしたね」


「ヤバイ・・・イカン。」「オレ、ホンマに泣くからあかんねん(汗)」
「(母は)いろんな仕事してました。宅建の免許…不動産を扱うのですね。 あと栄養士、簿記、教員の免許も持ってたり結婚式の司会の先生もやってたり…」
「いろいろな仕事をしてて…子供の頃からいろんなスキルのある母親を見てると尊敬するじゃないですか?」

「僕も高校は建築科へ行ってまして…。一級建築士を目指してたんですけどその時に情報技術検定とか…」」
「小っちゃいポケットコンピューターみたいなものがあって、それでいろいろ情報を処理できるんですがその検定試験がありまして…あとは危険物取り扱いとか…」
「ガソリンとかそういうものを管理できる資格です。ガソリンスタンドでバイトすると時給が上がるんです(笑)」
「いろんなものを持ってた方が良いなと思って。(四級船舶は)はい、これはジェットスキーをしたかったんで」
「船も運転できるんで。スキューバダイビングはお仕事で取らせて貰ったんですけど、海が好きなんで…」
「親を見て育ったし見習いたいし、尊敬してるんで…」
「(母は)結婚式の(司会の)先生をやってるんで標準語がベースなんですよ。 岡山出身の大阪在住のはずなんですけど、標準語なんです」

「(僕は)関西弁ですね〜(笑)(弟とは)そうですね、大阪弁ですね…モロ(笑)」
「“お帰り、帰っとったん。何してんの?腹減った、メシ行こか?”って(笑)“今日は出したるから行こうや”って」
「“まだ食うてへんの〜?一緒に行こうや”ですね」
「微妙なトコなんですね。そうですね人によって違うかも知れないですけど…そうですね…“食べてへんの食うてへんの」
「 “腹減ったわ〜行こうや〜”って感じです(笑)」
「中学高校…ずっとなんか仕事の相談とかプライベートのことなんかも…(お母さんに相談された)僕もなぜか経営学に詳しくなったりとか…」
「もう今は潰れちゃったんで良いんですけど…」

「高校生の時、岩城滉一さんとと京本正樹さんのトークショーを見に行ってて…大阪で。凄い大ファンだったんで…見に行ったらそこでスカウトされました。」
「人前で何かやるってのは特に好きじゃなかった。大っ嫌いですね。絶対人前に出るのは一生無いと思ってました。」
「初めは胡散臭いから断りましたね。怖いじゃないですか?いきなり…“えっ?誰ですか?”…」
「なんか…“こういう者だけど芸能界興味あるか”みたいな感じで《と名刺を渡すしぐさをしてみせます》“いや、無いです”ってすぐ断ったんですけど何回も何回も言ってこられたんで、“じゃあ1回お話を聞きます”ってことになって…で話してるうちに、『あ、良い人だ』って思って…」
「で、親と相談していろいろあって…初めは母が反対したんですけど…。父親は“行ってこい”みたいな感じで…僕も一生に一回しか無いから行こうかなぁと思って…」

「初めは右も左も解らないんで“あぁ、レギュラー(『おそるべし音無可憐さん』)が決まった”と思ったんですけど…。 卒業して上京したんですけど…」
「貯金してましたねぇ…」
「僕ずっ〜と貯めるのが趣味で…子供ながらに残高が増えてるのが凄い嬉しかったりして(笑)」
「増えてくの嬉しいっすね(にっこり)」

「(バイト)ずっ〜としてました。鍋居酒屋で。鍋がメインなんですけど、まあみんなお酒飲んで…」
「僕はウエイターだったんで…」
「“注文入りま〜す”みたいなこととか生(ビール)10個持ってったりとか…12個持ってったことありますよ、6個ずつ持って。もう『技』ですね」
「(今、かくし芸大会で、この技)笑いながら」やれるかも知れないですね」

「お年玉もずっと貯めてたんで。(150万円位?)まあリアルにその位ですかね(苦笑)」
「でも東京の物価の高さにビックリして…はい。蓄えもあるし“行けるわ〜”と思ったら…」
「(建築は)まあ一旦夢を追い掛けて東京へ行くからダメだったらまた戻ってきてやろうと思ってたんで…」
「まあ家賃の高いこと(笑) (家にいるときは家賃は考えなかった?)全然しなかったですね〜。もう一瞬でしたね〜うわ〜またお金減った〜ってねぇ…」
「全っ然無かったですね、もう……《何とも言えない悲しそうな情けなさそうな笑顔》」
「全然家賃もバイトやっても追い付かなくて…オーディション行っても行っても毎日毎日ほとんど落ちるばっかりで…もう全っ然ダメでしたね」

「映画『ウォーターボーイズ』が偶然決まって…いっぱい居る30人の中の一人っていう感じで…(撮影に2ヶ月かかって貯金通帳は) 減りました…ずっとキャベツとケチャップで生活してました」
「キャベツをそのままめくって洗ってケチャップ付けて食べてました。ケチャップ派だったんで…」
「ずっ〜とその生活してたら…あの〜体調悪くなって…18(歳)の時、入院しました」
「なんでやろ〜と思って、そんなことは無いはずやって先生に聞いたら… ケチャップを余りにも食べたせいか“石”が出来まして…で、腎臓に石が二つありました(苦笑)」
「お水も…いや、あまり飲まなかったです、はい。」
「その頃は僕一人でしたね(お弁当を分けるとこまで)まだ全然行ってないです。 もうキャベツだけ食ってりゃいいや…みたいな感じでしたね」
「そのまま食べた方が歯応えがあってお腹に溜る気がするんです(笑)」
2000年ウルトラマンコスモス春野ムサシを演じた杉浦太陽くん
ふっくらとした幼顔に幼年の面影をのこして

こんにちは〜春野ムサシです。

「ネクサスはオレの後輩や!」と、自慢げの太陽くん。
「(成人式では)あ〜、やっぱデビューのやつ…そういうのは地元が盛り上がるんで…」
「地元の友達に“出てないんか〜?”とか“上京したのに何やってんの〜?”みたいな感じで言われて …凄い悔しかったんで今年はやってやるゾ…とお墓参りに行って“じいちゃん今年は頑張るから応援しといてな!!”って行ったんです。その後東京に帰って一発目のオーディションが『ウルトラマンコスモス』だったんです。はい。」

幼い頃、七夕の短冊にウルトラマンタロウになりたいと書いて
15年後の七夕にコスモスの放送がスタートしました。
そしてそれは、父のお誕生日でした。

ヒーロー物ってやっぱりムキムキの人が多いから、 でも僕はそういう系じゃないんで、まず受かんねーなぁって思ったんですけど、 コスモスのテーマが優しさだったんですね。

それで僕が選ばれたみたいなんですけど、
よかった〜みたいなお母さんは号泣でしたね。
家族に電話して『ウルトラマンになった〜(笑)』って
本当にウルトラマンに憧れていたからラッキー!!みたいな。
実感がわくまでに時間がかかりましたね。

「受かって、主役決まって…“じいちゃんありがとう!!!って感じだったんですけど」
実はオーディションのとき、監督さん以外は僕を起用することに反対だった
でも、コスモスは自愛のウルトラマンで、笑顔がよかったので決まったと・・・
「監督が僕を抜擢してくれて…はい、なんか良かったなぁって思って(笑)」

「(コスモス)主演に受かるとは思わんかった。」
『音無可憐さん』から、次の仕事が決まるまで、「オレも1年空いてる時期、社会勉強と言うか、上に這い上がる勉強した。」

ウルトラマンコスモスという名前には、『宇宙』『調和』という意味と 花の『コスモス』も含まれていたそう・・・

コスモスは戦わないヒーローですから、仲裁にいきます。まぁまぁ・・って

「(お母様達、子供達に人気が出て)えぇ、あまり実感は無かったんですけど…」
「そうですね、嬉しいです、やっぱり。子供がわ〜っと応援してくれて、親子で一緒に応援してくれるんで」
3000人と握手し、 小さい子供のときはしゃがんで握手するので、スクワット状態で、次の日は筋肉痛
「(すごい人数)全員と握手した」
「“すいません、建築やめてヒーローやりますんで…”」

19〜21歳の青春はすべてコスモスだった。
それまではオーディション受けては落ち、エキストラやって。
それが一気に主演で、すべてが変わった。子供たちに会っても、ムサシ隊員というあこがれの目で見られて。
始めは子供の番組ということで不安があったけど、自分が昔タロウになりたかったことを思い出した。
それまでは土俵もなかったので、もう大阪に帰ろうと思った。それが、がんばる場所ができた。

でもヒーロー役と言う責任感とプレッシャーとの闘いだった
このムサシ役が、人生のターニングポイントになった
どんな役をやっても「すげぇな」と言われるようなかっこいい役者、人間になりたいです。

「ボクは・・ヒーローなんで・・・、ヒーローは『原点』です。ヒーローは人生の原点です。忘れられない・・・」
「子どものころ(のヒーロー)はダイナマンはやってて、よく歌ってた」

兄弟げんかをしたら、僕のほうが強いことがわかりました。相手ちっちゃいから、こう、ピッとね(笑)
三分以内に倒せればウルトラマンの勝ちで、三分以内に倒せなかったら負ける、ウルトラマン帰らないといけないんで

真っ暗なところも、怖いもん一切ないんです。 変身の時に高いところに連れて行かれても「高いとこ、好きなんです」(爆)

自分の初恋相手の子供さんがウルトラマンを見ていたということを知り、感無量

かっこいい女性が好きですね。
相手と一緒に自分も成長できていくような

恋した人数覚えて無いですよね・・右手の指を折り曲げながら

「弟は、(“太雄”と書いて)“たかお”です。名前をパッと見たら僕と一文字しか変わらないんでよく間違えられるんです」
「(兄弟)仲良いです。上京して6年目なんですけどず〜っと一緒に暮らしてます。」

「(弟と)似てます?全然言われないんですよ似てるって」
「太陽と太雄の“太い”が合わさったら物凄い太いってことでEx.Boldという名前になりました(笑)」
「(関西出身なんで)たぶん結構大阪弁喋ってますよ」
「今はまあなんとか弟を養っていけるくらい…です」
「(テレビ局弁当)はい出ますね。あれを持って帰っていつも分けて食べてます」

「(『てるてる家族』では)あー喋れなかったんですよ。昭和の大阪弁と平成の大阪弁じゃ違うんですよ。だから直されました。」
「凄くショックでした。大阪弁得意っていうか大阪出身のはずなのに大阪弁直された…みたいな。TVが出来た時代の話でしたから…」
「変わりましたね〜…ショックでしたもん。自分は大阪弁自信ありましたからそれを違うって言われて“どこが違うんですか〜?!”って結構話し合ったりしました」
やっぱ朝ドラとかいうと役者として生きていくための登竜門みたいな感じだったんで…感動しました」

「(その時お正月の隠し芸大会練習の為に)大阪で撮影していて隠し芸の稽古が東京であって。それで始発で大阪行って夕方東京に戻って深夜までやって、そしてまた始発で行っていうのが続いたので…」
「アクロバットダンスです。バランス系は得意ですね」
「ダンスは出来ないですね〜。小っちゃい頃からやって体に染み込ませないとやっぱりリズム感とか…」
「(本番は)あ〜ちゃんと出来て感動して泣きました。号泣してました僕(照)」

「僕はみんなで何かを作るとか…舞台もそうですし、みんなで稽古をしてきて…初日とか楽日とか、凄く感動しぃってゆーか涙脆いんですよ。嬉しくなってすぐ泣いちゃうんです」
「大変でしたねぇ。やっぱり仕事の合間に稽古するんで…」
(太雄くんがヒーロー仮面ライダーになって)「ビックリしましたね!!」
「驚きました。でもめちゃめちゃ嬉しかったですね」
「弟より先に僕が聞いちゃって、もう嬉しくて嬉しくて仕方なかったですね。先にマネージャーと喜んで弟に電話したんですけど…あんまり全然嬉しそうじゃなくて…(笑)」
「で、夜行ったらやっと実感沸いてきたみたいで物凄くはしゃいでましたね」
「“仮面ライダーやぞ”“え?何が?もう眠たいからねるわ”…うそ〜さみしいわ〜って思って帰ったら“さっきの話ホンマ?”みたいな感じだったんです」

「ヒーローショーはまた違ったんで…(競演はなかった)やってみたいですね(にっこり嬉しそう)」
「今も一緒に住んでます。僕、多分ブラコンですね(笑) 多分そっちの気あると思います(笑)」
「(弟だけの日は気になって行って見ていた)そうですね…やっぱ気になるじゃないですか…」

「ちょうど僕と弟がバンドを組んでたんで、そういう感じで僕らの側で出させて貰ったんです」
「はい、そうなんですよ。大阪城公園のとこでやらして貰って、ファンの方とかもみんなエキストラで出て貰って…」
「(弟と)初共演なんで、是非みんなにも見て欲しいなぁと思ってます。弟大好きですんで、はい(笑)」
「(弟は)僕と全く正反対です。でも逆にぶつかりもするんですけど…もう24年も一緒に居るんで…」





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